日本航空123便墜落事故 ~機長の判断や捜索・発見まで~

Part1では墜落までの概要、
Part2ではボイスレコーダーの全文を書き起こしました。

Part3では機長の判断・捜索・発見に焦点を当てたいと思います。

乗務員に対しての批判

垂直尾翼が破壊されたことによって油圧を失い、
操縦不能状態の123便を何とか羽田空港まで戻ろうと
懸命に操縦桿を握っていましたが
暗中模索の末、御巣鷹山に墜落しました。

原因が分からず操縦不能となった123便を
緊急事態発生後、32分も飛ばし続けたことは
結果はどうあれ凄いことだと思います。

しかし事故後はの操縦ミスを疑われ、
クルーはもちろんのこと、クルーの家族に対しても批判の目が向けられました。

特に機長の家族は犯罪者扱いされ、
その嫌がらせは自宅にまで及びました。

後に原因が判明し、ボイスレコーダーが流出するなど
墜落まで懸命に戦ったクルーに対して
称賛の声が挙がりました。

機長の判断は正しかった?


http://egiing.com/archives/1036764920.html

操縦不能に陥った機体を
何とか制御しようと最後まで諦めなかった努力と操縦技術に対して
評価する声が挙がってきていますが
個人的に2つの疑問がどうしてもぬぐえません。

・1 なぜ羽田にこだわったのか?

・2 横田基地からのコンタクトを無視したのか?

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なぜ羽田にこだわったのか?


http://blog.goo.ne.jp/junsky/e/0aaafc031c6fea3731c…

衝撃音と共に操縦不能となった123便の高濱機長は
羽田に戻ることを管制官にリクエストしました。

しかし制御が効かず、ふらふらと西へ飛んでいたため
東京航空交通管制部(東京ACC)は進行方向72マイル(約115㎞)先に、
名古屋空港があるため、名古屋への着陸を提案しましたが
高濱機長はそれを断り、羽田空港に引き返すことをリクエストしました。

なぜ名古屋空港ではなく羽田にこだわったのでしょうか?
実はこのころ、左右のエンジンの出力調整だけで、
ダッチロールとフゴイドをかなり減衰させることに成功していたことと、
羽田空港は大きな空港なので滑走路も広くて長く、
また緊急事態に対しての設備などもしっかりしているので
迅速な対応が可能という点で羽田に戻ることを望んだのではないかと思われます。

横田基地からのアプローチを無視したのか?


https://matome.naver.jp/odai/2138565537926698301

羽田に戻る事をリクエストした123便は右旋回をしながら
羽田へ向かっていましたが、
同機から最も近い横田基地からコンタクトがありましたが
基本的にこれには応じませんでした。

これに関しては、様々な憶測や陰謀論がありますが
基本的には治外法権である米軍基地への着陸は
事故調査に大きな影響を与えかねない為
拒んだのではないかと思われます。

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捜索

墜落から約20分後の19時15分頃、
米空軍のC-130輸送機が、群馬・長野県境付近の山中に、
大きな火災を発見と上空位置での
横田タカン方位(305度)・距離(34マイル)を
航空自衛隊中央救難調整所に通報。

19時21分ごろ、航空自衛隊の百里基地を緊急発進した
F-4戦闘機の2機も、墜落現場の火災を発見して、
上空位置での横田タカン方位(300度)・距離(32マイル)を通報した。

これらの航空機が通報に利用した「横田TACAN」とは、
設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から、
現場の上空位置を搭載の距離測定装置で測定したものである。

本来これらの設備や機器は、航空機の航法用として用いられており、
この墜落現場の位置報告は正しい情報であった。

墜落から約1時間後の19時54分に、
救難・救助のため見切り発進した百里基地救難隊のKV-107ヘリコプターは、
46分後の20時42分に現場上空に到着した。
20時33分になって、救難調整本部(東京空港事務所長)から
航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)が行われた。

しかし、当時のKV-107救難ヘリは、
両側面のバブルウィンドウ横に
救難用ライト4灯を装備して夜間の救難作業は可能だったが、
赤外線暗視装置などの本格的な夜間救難装備の無いことなどを理由に、
事故当夜の救難員が降下しての救助活動は行われなかった。

位置情報の混乱


http://www.geocities.jp/at_mocha/ja123/ja123.htm

在日米軍・航空自衛隊が把握した、
墜落現場の位置報告は正しい情報であったにも関わらず、
その情報が活かされることは結局無かった。

事故機の遭難から約1時間40分後と、
遅れて出された航空自衛隊への災害派遣要請の背景には、
運輸省航空局東京空港事務所の幹部判断である
「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」などや、
運輸省よりの「レーダーから消えた地点を特定せよ」と
何度も東京ACC(東京航空交通管制部)には電話が入るなど、
所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・
地点特定に固執した混乱や錯綜が窺われる。

陸上からは、群馬県警察・埼玉県警察・長野県警察が
墜落現場の捜索にあたった。

20時21分には、長野県警臼田署のパトカーが
「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。

21時39分には埼玉・長野両県警のパトカーが
三国峠の西北西に赤い煙を発見した。

12日深夜までに、長野県警は墜落現場は群馬県側の山中であると発表した。

しかし、氏名不詳の110番通報によりもたらされた
「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」との情報や、
日本航空による22時の広報では「御座山北斜面」、
運輸省は事故現場の緯度経度(北緯36度02分、東経138度41分)の他に
「長野県南佐久郡御座山北斜面」、
朝日新聞では防衛庁からとして「現場は長野県の御座山北斜面」などの
誤報が繰り返され、これらの情報で地上からの捜索は混乱した。

消防・警察や災害派遣要請によって出動した
航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊は、
翌13日の朝まで現場に到達することはできなかった。

なお、航空自衛隊第44警戒群からの情報として、
遭難当初から東京救難調整本部(運輸省航空局)より公表されていた、
遭難機のレーダー消失地点である「北緯36度02分、東経138度41分」は、
御巣鷹山から北側約2.0kmの群馬県側になるが、
根拠のない情報として「長野県南佐久郡北相木村」、
「御座山北斜面」が付加され、
これにより緯度・経度情報が地上捜索隊の活動に生かされることはなかった。

海上では、乗客が機外に吸い出された可能性があることから、
東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った。

墜落機発見


http://xtreeem.com/I0000594

8月13日午前4時30分過ぎの航空自衛隊救難隊による「墜落機体の発見」、
続く5時10分の陸上自衛隊ヘリによる機体確認、
5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認と、
各自衛隊や警察のヘリによって、
次々と墜落現場の状況が確認された。

群馬県上野村の黒沢丈夫村長(当時)は、テレビ報道の映像を見て、
現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、
土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した。

現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。

墜落からおよそ14時間が過ぎた、8月13日午前8時半に、
長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、
その後陸上自衛隊第1空挺団(指揮官:岡部俊哉(現陸上幕僚長))員が
現場に降下して救難活動を開始。

陸路からは、上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、
多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が現場に到着し、
ようやく本格的な救難活動が開始された。

8月13日午前11時前後に、4名の生存者が長野県警機動隊、
上野村消防団などによって相次いで発見された。

4人とも重傷を負っており、
陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送され、
4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて藤岡市内の病院に運ばれた。

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